無自覚な特権

時代が変わったのは誰のせいではない。かつては何をするにも、見られる側の気持ちにまで思いを巡らせることは少なかった。SNSもなかったあの頃は、ただただ目の前の楽しいに向き合い、それで良かった。けれど、もうそれではダメだよと、そんな空気が広がりつつある。
𠮷澤ハナ 2025.07.12
誰でも


時代が変わったのは誰のせいではない。

かつては何をするにも、見られる側の気持ちにまで思いを巡らせることは少なかった。SNSもなかったあの頃は、ただただ目の前の楽しいに向き合い、それで良かった。


けれど、もうそれではダメだよと、そんな空気が広がりつつある。「怖い」「大丈夫かな」と言葉にすることが、まだまだやりすぎとされる場面は残っている。

それでも少しずつ空気が変わっているのを肌で感じる。感じたことを言葉にする自由が、声を上げることが、ようやく許され始めている。


「意図はなかった」。その言葉にきっと嘘はない。自分の行為が、まさか誰かにとって脅威や傷になるなんて、きっと多くの人は想像なんてしてないだろう。

だからこそ驚くのだ。

そんなふうに思われていたなんて、と。

聞きなれない言葉に、「無自覚な特権」というものがある。これは、「自分が特別に守られている立場にいること」に気づいていない状態そのものを指す。それが特権だと自分自身では到底思えない。

なぜならそれは、特権が当たり前で内面化されているからだ。そしてときおりその無自覚は、誰かにとっての痛みになることがある。

そうした違和感は簡単にかき消されていく。

何度も浴びた、「気にしすぎ」「感情的すぎる」という声。それは見えない力の非対称性を覆い隠してきた。
ただ、本当に問うべきなのは、意図があったかどうかではない。その言動がどう届いたか。どう影響を与えたか。

誰かに向けたつもりはなくても結果として誰かに向いたとき関係性は対等でなくなってゆく。
多くの人は、自分の中の基準がニュートラルだと思っている。

私もそうだった。
でも実際には、自分が不快に感じないかどうか、でしかないことが多い。

本気で偏ってないつもりでも、いつのまにか誰かを傷つけている。誰もが自分の視点からしか世界を見られない。

でも、その見えない角度からの声を「過剰だ」と切り捨てることは、本当にフェアなのだろうか。

黙るしかなかった世界はあまりに長かった。

声をあげられなかった人はあまりに多すぎた。


最近はやっぱりやりづらくなったな、と感じる人もいるだろう。
でも、それはようやく「やりづらさ」が可視化されてきただけだ。

もう私は黙らない。

時代が変わったのは誰のせいではない。
変わるべくして、変わった。
それが、私たちがいま生きるべき世界の姿だと思うから。



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