言葉を飲み込む
最近、言葉を飲み込むことが以前にも増して多くなった。
もっと目の前の課題や仕組みの問題点に言及したいと思いつつ、いまの自分が持つ知識では論理破綻しそうで言葉にできない・自信を持って述べられないと感じてしまっている。
課題意識は強くなる一方、言葉にできなくて頭の中に溜め込む日々が長く続いており、正直どうにかなってしまいそうである。
改めて、言葉や知識は自分を救うためにあるのだと再確認させられる。
学生の頃は、勉強をすること知識を増やすことがなんの意味もないと本気で思っていたし、世界への解像度が低いままの狭い世界で生きてきた。
いや、もちろんそこは快適ではなかったが。解像度は低いが、人間なので生きづらさは感情感覚として感じていた。ただそれが「なぜなのか」言葉にできなかった。
持っている言葉の数が少ないから、モヤモヤした自分の感情を何ひとつ説明できない。説明できないということは、自分でも自分がよくわからないということだ。
もちろんモヤモヤは晴れることがない。
あのときに比べたらいまのモヤモヤは大したことはない。少なくともやるべきことはわかっているし、モヤモヤのいまをある程度言語化できる。
もし論理破綻を気にせず、現状のお気持ち表明をすることならいくらでも出来そうだが、私自身あんまりそれは向いてない。
感覚的なイメージを持たれる方が多いが、実は論が通らないと動けない一面も多々あるのだ。
とくに文章に対しては、自分のなかでこれは出しても大丈夫、何を聞かれても説明できる、というレベルにないとなかなか見せられない。
責任感とも言えるし、こだわりが強いとも言える。
そんなわけで、こうして結論のいらない文章を久しぶりに書いてみた。
なんでもいいからそろそろアウトプットしないとこの連日、京都の暑さも相まって、やっぱりどうにかなりそうだったので。
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