人は寂しいと植物を買う
すこしまえ、寂しいと人は植物を買うという話を友人とした。友人が花を買う私を見て「日常に花を買う余裕があってすごい。」みたいなことを言ってきた。うろ覚えだけど、たぶんそんなことを言われた。
「いや、余裕があるとかじゃなくて寂しいから花を買うんだよ。」と返した。
これは実体験だ。
20代のころ別れを経験した。
大騒ぎして周囲に悲しみが漏れたりすることはなかった。ただ、それまで何も置いてなかった部屋に植物の鉢や花が増えていった。
小さな植物園みたいになってしまい、あまりに増えたので天井まで届く専用の棚を買った。
今でもよく覚えている。寂しかったんだ。
別れが受け止められず、寂しくて寂しくてたまらなかった。でもこういうとき誰かに甘えるやり方なんか知らなかった。
だから生きた植物をたくさん買った。自分以外の生き物の気配を、そばに置いておきたかった。
今でもそのときの名残は残ってる。
20代のときほど寂しさに狂う夜はないけど、どうしようもない日は花を買う。
あの当時、寂しさから逃げるように作った私だけの植物園は傷が癒える年月に合わせてすべて枯れた。別れ自体の傷は癒えたけど、誤魔化してしまった他の痛みは消えてない。
寂しさを隠したこと。
誰かと分かち合いたかったこと。
痛みを認めなかったこと。
本当は植物を愛してなかったこと。
寂しいから側に置いただけっていうこと。
そして最後には美しかった植物を枯らしてしまったこと。
寂しさと愛はよく似ているから、見分けをつけるのがむずかしい。
買ったときはたしかに「花が好き。植物を愛している。」とそう思っていたはずなのに。
ただ寂しかっただけだった。
あと何回間違えれば、正しく見分けられるようになるのだろう。
もう誰も、これ以上枯らしてしまいたくないのに。
hana
すでに登録済みの方は こちら